知性は死なない
アフォーダンスという能力観の刷新
與那覇潤『知性は死なない 平成の鬱をこえて』
希望をくれる本だった。
「知」を仕事にしていた大学准教授の筆者が、鬱病を患うことで知性というもっとも頼りにしていた「能力」を失う。文章を書くことさえできなくなった入院中にみつけた「生き方」が書かれている。
知性主義と反知性主義、言語と身体、全編通じて読みごたえのある内容だが、白眉は「アフォーダンス」のくだりだ。
「提供する」という意味の動詞 a f f o r dを名詞化したアフォーダンスとは、「能力」の主語を、人からものへと移しかえるための概念です。
そう、ここに書かれているのは「能力観」の刷新だ。能力は個人に閉じて属するものではないという。
「話し上手 」な人が存在できるのは 、往々にしてまわりに 「聞き上手」がいるからです 。聞くというアフォードがあって 、はじめて話すことは可能になり、それが話し手の能力とみなされます。その意味で、あらゆる能力は、究極的には「私有」できません 。
面白い。では職務遂行能力を個人が「私有」しているとする日本の多くの職能等級制度は根底が崩れることになる。
ある職場ではハイパフォーマーであっても、転職や異動によって周囲の人が変わると発揮できなくなる能力。それは本当に個人に属しているものなのか?
「全員が有能」を目指す限界
個人に能力が属している前提で考えると、人と人の間には「能力の差」がつねにあることになる。
「全員が有能」な会社や社会というのは 、思考実験としてはありえますが、前者はまずめったに存在せず、後者は存在したためしがありません 。
企業の人材マネジメントに落として考えれば、有能な人材を「採用」する、個人の能力を「開発」する。それには必ず限度があるのだ。能力には必ず差異がある。
その差異が破局につながらず、むしろたがいに心地よさを共有できるような空間をデザインする知恵こそが、いまもとめられています。
大切なのは、その間を見る視点だ。関係性をどうデザインするのか(人事の視点にすれば組織開発である)。
さあ、そのデザインとは、知恵とはどう身につければ良いのだろう。
筆者はこう言っている。
あなたがもし、いまの社会で傷ついていると感じているなら、それはあなたにいま、知性をはたらかせる最大のチャンスが訪れているのだと、つたえたいと思います 。
むしろその関係性に傷ついているときこそがチャンスなのだ、と。
なんだか大きな希望の塊をもらったように感じる。
鬱によって知性という最大の「能力」を強制的に手放した筆者が、これをいま述べる迫力は凄まじい。
なるほど。知性は、死なない。