Q4.日本企業の等級は、なぜ「人」を見るのか?

日本企業が「人」を見る等級になった理由

1FF4EF44-B45D-4E3C-97E5-30F40F56AE08勉強会参加者の問い

前回に引き続き、テーマ2.等級への質問です。

日本企業の等級はなぜ「人」中心なのですか?

アカツキの採用担当、峯さんの問いはいつも直球ど真ん中ですね。深い問いなので段階を踏んで答えていきたいと思います。

まず等級が「人」基準であるとはどういうことか、おさらいしておきましょう。

 

そもそも「人」基準の等級とは?

等級には大きく2種類あります。「仕事」基準と「人」基準です。「仕事」基準とは、仕事によって等級が区分されること、「人」基準とは人によって等級が区分されること、ですが初めはピンとこないかもしれません。

例えば、経理と労務と総務の仕事ができるAさんと、経理しかできないBさんをあなたの会社が雇ったとします。2人が経理担当という同じ仕事についたとき、どちらの給与を高くしますか?

多くの日本人は、Aさんを高くすると答えるのではないでしょうか。それが人基準です。同じ経理担当だからAさんとBさんは同じ給与だ、とするのは仕事基準です。

経験や能力は人に属するもの。人によって扱い(給与、区分)を変えるのは人基準の等級です。そして、経理担当という仕事であればどんな人であっても扱い(給与、区分)を変えないのが仕事基準の等級です。

人基準の等級は、年齢や経験で区分を変える年功等級、能力で区分を変える職能資格等級、などがあります。仕事基準の等級の代表選手は職務等級です。

では問いに答えていきましょう。(以下は、海老原嗣生 萩野進介『日本人はどのように仕事をしてきたか (中公新書ラクレ)』を参考にしています。)

 

理由1.戦後、生活を保障するために「年功」を選択した

戦後、日本経済は疲弊していました。飢えている全ての人たちの生活を担保するため、少ない原資をみんなで平等に分ける必要がありました。

また、当時は労働争議が多く勃発し、労働者をランク付けしてはならないという思想のもと、職務も能力も査定しない形が求められていました。そして企業のマネジメントコストがかからない形が必要でした。

そこでシンプルに、年齢が高い人は生活によりお金がかかるため、高い給与を支給するという年功等級が選ばれました(年齢は人に属するため人基準ですね )。

「できる限り生活を保障する」年功は、戦後日本で人を生かす合理的な仕組みだったのですね。

しかし戦災から復興して社会全体が豊かになるにつれ、年功等級は支持されなくなりました。それは、がんばった人もそうでない人も給与に差がつかず、納得感がない、やる気がおきない、という問題が生じたからです。

image

理由2.変わり続ける日本企業に「職務」は適さなかった

1950年代中盤からは、各企業で職務等級の導入が試みられます。職務が給与を決める、という仕組みは合理性が高く、明快です。

しかし、全ての職務を分析して等級を定義するのには膨大なコストがかかります。さらに当時成長中だった日本企業では、常に新しい仕事が生まれており、それを誰がやるのかという問題が生じました。随時、等級定義を更新し続けることは現実的ではありません。

さらに海老原嗣生はそういった経済合理性だけでなく、職務は心の部分で日本になじまなかったと言っています。

ここには、後輩への面倒見のよさも、各人の切磋琢磨にも評価が与えられない。和と研鑽を旨とする日本的伝統とはなじまない制度だったのでしょう。(『名著で読み解く日本人はどのように仕事をしてきたか』p63)

結果、人を見ない合理的な「職務」等級は日本企業には根付きませんでした。

image

理由3.「職能資格」が日本人の気質にフィットした

ようやく、日本に最も影響を与えた「職能資格」等級にたどり着きました。職務の導入を指導するGHQに対してNOの声をあげ続けたのが、職能資格の立役者、楠田丘その人です。

能力によって人を区分する職能資格については『人間の成長を重視した「職能資格」は、日本で最も普及した等級』『「職能資格」は曖昧で使いやすい等級』で詳しく述べているので、ここでは日本人になぜ馴染んだのかを考えたいと思います。

image

日本人は「一体感」を壊したくない

日本人の特徴を示す面白い話があります。

心理学者の河合隼雄が『ユング心理学と仏教』の中で書いた、日本人とアメリカ人のスピーチの違いです。

アメリカ人はスピーチをジョークからはじめるが、日本人はスピーチを弁解からはじめる。

「高いところから、失礼いたします」

日本人は何かで集まると、ある種の一体感を共有します。その中で誰かがスピーカーになると、その人は他の人々から区別されることについて弁解しなければなりません。誰であれ、他の人から離れて一人立ちしてはならないのです。

しかし西洋では、一堂に会していたとしても、それぞれが他とは異なる個人であることが前提です。従って何かジョークを言って笑いを共有することで一体感を得る必要があるのです。

このような異なる態度は、日本人と西洋人の自我意識の差を明らかにしています。西洋では、最初になすべきことは、他と分離した自我を確立することです。このような自我が所を得た後に、他との関係をはかろうとします。これに対して、日本人はまず一体感を確立し、その一体感を基にしながら、他との分離や区別をはかります。(『ユング心理学と仏教』p15)

その日本人の意識は、本人が自覚しているかいないかに関わらず、仏教に大きく影響されている、と河合隼雄は言います。

森林の思想「仏教」の影響

知の巨人、松岡正剛は『17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義』の中で、西洋と東洋の違いを砂漠の思想と森林の思想として説明しています。

西洋で発祥したユダヤ教、イスラム教、ゾロアスター教は、唯一絶対の神を信じる一神教です。これらが生まれたのはいずれも砂漠の風土でした。過酷な砂漠の環境ではちょっとした判断ミスで命を落とします。西に行けばオアシスがあるが東へ行けば砂漠が続き死が待っている。神もリーダーも1人でよく、大人数で迷っていては判断が狂います。二者択一の二分法、合理的で明確な判断がその特徴です(職務等級にも現れていますね)。

一方で仏教などの東洋の宗教は、インドや中国や日本の湿潤気候で生まれた森林の思想です。森林では判断を間違えてもすぐに死ぬことはなく、多様な情報が待ち構えています。東には川が、北には猛獣が、西にはキノコが、南には薬草がある。こういう風土ではじっくり思考し様々な選択肢に思いを巡らせることが大切です。釈迦は座って瞑想することで悟りましたが、砂漠でこれをやっていたら乾いて死んでしまったことでしょう。森林の思考では、様々な専門知識を持った神や仏が互いに調和していく多神教(多神多仏)が生まれました。判断ではなく調和を大切にする文化はここからきていると思われます。

松岡正剛は「西洋の知、資本主義の視点だけで世界を見るな」「なぜなら西洋的な思考には修繕能力(ブリコラージュの能力、すなわち編集能力)がないからだ」と(レヴィ=ストロースの言葉を借りて)言い、仏教のような編集的な思考がこれから重要になると主張しています。

 

A4.日本人が大切にする一体感と調和をマネジメントできる等級だから

人基準である職務資格制度は、能力の判定が難しく、ともすれば年功的な運用になる「曖昧さ」という弱みを抱えています。それにも関わらず日本で最も普及しました。

その理由は、頑張って能力を上げれば評価されるという希望が持てて極端な差がつき過ぎずマネジメントの裁量の余地が多く残されている、つまり、一体感と調和という日本的で編集的なマネジメントができる等級だからです。私はそう考えました。

image

image
テーマ2.等級

次回は、テーマ3.評価への参加者の問いを紹介します。Q5.個人も組織も幸せになる目標の立て方は?です。