森博嗣『自由をつくる自在に生きる』を読む

君が決めるんだ

IMG_5442自由の獲得こそ人生の目的

森博嗣はコンクリートの研究者で『すべてがFになる 』でデビューしたミステリ作家でもある。速筆、多作であっという間に人気作家になり、今は隠居して鉄道模型を作っている。

その文章からいつも感じるのは思考の自由だ。ここまでやりたいように、思ったとおりにやれるのか。『自由をつくる自在に生きる 』は彼自身がその自由を語っている本で、とても面白かった。

尾崎豊は「人生はきっと、やりたいことをやるためにあるのだと思う」と言うが、「自由っていったい何だい?」と葛藤し続けていた。

森博嗣も「人生の目的は、自由の獲得」だと言うが、そこに葛藤はなさそうだ。シンプルで(ややつっけんどんな)思考と着実な行動のみがあるように見える。同じ自由を語っていても印象が大きく違う2人を対比しながら、自由について考えてみよう。

 

自由とは自在のこと

森博嗣の自由とは「自在」のことであり、剣豪が刀を操るように、自分の「思ったとおり」にできることだそうだ。森博嗣の剣豪と言えば小説「ブラッド・スクーパ – The Blood Scooper」で何十人もをメッタ斬りにしている主人公ゼンが浮かぶ。それは静謐で我欲とは無縁な剣だった。

自由になるため(思ったとおりになるため)には、思いのとおりに「思考」し「行動」して、思ったとおりにできた「結果」を見て「満足」する。その一連のプロセスが森博嗣の「自由」である。

 

不自由という支配から抜け出す

前述した自由のプロセスに何らかの支配を受けて抑制がかかることを「不自由」だと森博嗣は言う。自由であるためには不自由という支配から抜け出さなければならない。

家族や親戚、友人や同僚などの他者、学校や会社、国などの社会、といった外部からの支配はわかりやすいが、一番やっかいなのは自分による支配だ。「乗り越えられないと信じていた困難」「あると思い込んでいた限界」が自由を束縛している。「何ものにもこだわらないことに、こだわる」姿勢が森博嗣らしい。

さて、尾崎豊は名曲「卒業」でこう歌っている。

あと何度、自分自身、卒業すれば、本当の自分に辿り着けるだろう

この支配からの卒業。尾崎にとっての自由とは、本当の自分を求め、僕が僕であるために、今の自分という不自由を卒業し続ける、個性化のプロセスなのだ。

 

自由の構造に照らす

青山拓央『時間と自由意志』を読むで紹介した、自由の構造(下図)に照らして考えてみよう。青山さんは自由とは「両立的自由」「自由意志」「不自由」の合金(アマルガム)だと言う。森博嗣と尾崎豊の自由はどんな配分で合成されているだろうか。

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森博嗣は、したいことを妨げられずにする「両立的自由」のことを自在と呼び、それが自由だと言ってる。そして「不自由」から抜け出すことが自由に繋がると言う。

森博嗣のこの本には「自由意志」が登場しない。それは「こだわらない」ことを信条とするからかも知れない。彼の他のエッセイを読んで探ると、子供の頃にやりたいと思っていたができなかった大規模な鉄道模型をつくることが彼の「やりたいこと」のように見える。

過去の自分(という他者)の中に自由意志を見出していると捉えるならば、やはり自由意志は一人称の中には存在しないのかも知れない。また前出の剣豪小説でも相手を斬ろうという意志が見えた瞬間に切られる描写がある。意志の介在しない流れるように自然な動きにこそ自在が宿っている

一方尾崎豊の自由は、押し付けられた「不自由」との戦いである。盗んだバイクで走り出しても「自由になれた気がした」だけだと感じてしまう彼の歌からは 「両立的自由」を感じられない。

やりたいことを言葉にするときの尾崎豊は観念的であり悲愴である。「自由意志」が他者の中にのみある幻想であることを知っているかのように「君の中の僕だけがぼやけて見える」と歌っている。

 

自由意志はどこにあるのか?

ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」にはこんなシーンがある。

アリス 「お願い、教えて。私、どっちに行けばいいの?」
チェシャ猫 「それは、きみがどこに行きたいかによるさ」

サピエンス全史でユヴァルもこう言っている。真の疑問は「私たちは何を望みたいのか?」だと。

どうして良いかわからない状況で「とにかく前に進みましょう」といった発言を聞くと、前がどちらかによるな、と私はいつも思う。何を望むかさえわかれば、あとは考えて動くだけのシンプルな作業なのだ。

自由意志はどこにあるのか。この問いに、森博嗣は「笑わない数学者」の中で博士にこう答えさせている。

「君が決めるんだ」

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