鈴木大拙『禅学入門』を読んで座る

禅とは何か?

禅とは何かを知りたくて、鈴木大拙『禅学入門 (講談社学術文庫)』を手にとったのは2年前のことだ。

しかし、わからないのだろうなあ、という諦めが読む前からあった。それは禅に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があるからだ。禅の教えは、文字や言葉で伝えられるものではない、という意味だ。じゃあ読んでも意味がないのでは?なぜ書いたのか。だがまあ読んでみよう。どう理解しても「喝!」と打たれてしまいそうだが。

 

1.禅は個人的経験である

禅にあっては個人的経験を以て一切とする 。経験の背景がない人々にはいかなる理念も了解できない

 

2.禅は論理の正反対である

悟りにも禅にも、知的理解として説明や、提示や、証明を加えることの出来るようなものは何物もないのである。なんとなれば禅は思念とは無関係で、悟りは一種の内的知覚と言うべきものであるから。

 

3.禅は説明を嫌う

禅は仲介物を嫌う。知的の仲介をさえ嫌うのである。それは終始一貫した訓練と経験である。

砂糖の甘さを味わいたいと求めたとき、ただ砂糖を吾々の口の中に入れるだけで、それ以上の言葉はいらない。それと同じだと鈴木大拙は言う。

 

4.禅は電光に譬えられる

禅訓練の仕方は一気に人をディレンマに陥れることにある。吾々は論理を用いず、一層高邁な心によって、自らこのディレンマを脱出する方法を工夫しなければならぬのである。

だから禅の師匠は弟子の持っている足場を取除いて、その代わりに全然足場に非ざる足場を与えることに努力するのだそうだ。

 

5.禅修行の目的は新見地の獲得、つまり悟りである

禅は洞察によって心の本性に達し、自らが心の主となることを目的としている。

禅修行の目的は事物の観察に対する新見地を獲得することにある。もし吾々が二元主義の法則に従って、論理的に考える習慣を持っているならば、それを捨て去ることである。

この新見地を獲得することを「悟り」と言うのだ。

 

只管打坐

読後の感想は、やはり「不立文字」であり「只管打坐(しかんたざ)」だということ。ただひたすら座るしかないのだ。

ブッダが行ったと言われるヴィパッサナー瞑想に行くことにした。千葉でコースを受けられるのだ。10日間誰とも話さずにただ座る。その経験はまた機会を改めてご紹介したい。