井筒俊彦『意識の形而上学』を読みながら鎌倉大仏に会いに行く

いざ鎌倉へ

鎌倉の大仏こと阿弥陀如来に会いに行ってきた。阿弥陀如来は西方浄土(極楽)にいる如来だ如来の如は『真如』の如である。

 

真如とは何か?

さて真如とは何だろう? 中村元のおかげで『空』と『縁起』がわかったので、次は真如に取り掛かってみよう。井筒俊彦『東洋哲学覚書 意識の形而上学―大乗起信論の哲学を持って湘南新宿ラインに乗り込む。

この本は、井筒俊彦が東洋哲学の伝統に挑む(東洋哲学全体に通底する共時論的構造を把握する)壮大な取り組みのひとつだ。大乗仏教屈指の宗教書である『大乗起信論』を哲学として現代的に読み直す(意識形而上学の構造を構築する)試みである。

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『起信論』では、思惟が至るところで双面的・背反的、二岐分離的に展開する。思惟の進み方が単純な一本線ではない。真如はこう説明されている。

第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。

しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での「真如」でもあるのだ。

この二重構造に目隠しされることなく、そのまま無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚式を持つ人こそ「悟達の人」なのである。

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報国寺の竹林

仮名(けみょう)

東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。言語を超え、言語の能力を否定するために、言語を使わねばならないのだ。

曰く「絶対」、曰く「真(実在)」、曰く「道(タオ)」、曰く「空」、曰く「無」等々。いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮りの名(『起信論』のいわゆる「仮名」)にすぎない。

真如とは「真にあるがまま」という仮名である。絶対無分節的な「形而上学的なるもの」を、真如と名付けたとたんに、それは切り分けられ、他の一切から区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。だからこそ仮名なのだ。

仮りの名でありながら、一切であることを保っているその状態を如来蔵という。

 

大仏という仮りの姿

さて、大仏という仮りの姿で鎌倉に立ち現れた阿弥陀如来はこんなお姿であった。

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面白いことに、鎌倉大仏は中に入ることができる。20円(安い!)をお支払いして細い階段をギュウギュウと進む。

大仏の中身は空っぽである。なんと象徴的なのだろう。

頭部を内側から撮った写真はこちら。茶色いところはプラスチックで補強がしてあるのだそうだ。頭の中も当然空っぽである。

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まさに「師に握拳なし(仏は何も隠さない)」。さあ、ここから私は何を学ぶのだろう。弟子の姿勢が問われる

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