佐々木閑 「100分de名著 般若心経」を読む

私は「般若心経」について、なんだか大きな誤解をしていたようだ。

般若心経という262文字の短いお経は、日本で一番読まれているのだそうだ。私も母方の実家で法事のたびに聞かされていて馴染みがあった。有名な「色即是空」というフレーズは、なんだか意味深で興味をそそる。

仏教を知る入門として、まずここから、と思って『般若心経』 2013年1月 (100分 de 名著)を手にしたのだが・・・。

p14 『般若心経』はある意味、釈迦の教えを否定する経典です。釈迦の時代の教えを「錯覚である」と言って否定し、それを超越するようなもう一つ高次の論理をその上にかぶせ、みずからが釈迦の時代の教えよりも上位に立つことを目指した、そういう経典なのです。ではなぜ、そういうことが必要だったのかと言えば、大乗仏教が新興の宗教運動だったからです。

なんと、佐々木閑によれば、般若心経とは釈迦を否定する新興宗教の経典だったのだ。
この本では、釈迦の仏教と般若心経の主役である観自在菩薩(観音)の教えの比較によって話が進んで行く。以下、私の勝手な解釈も含むが、だいたいこんなことが書かれている。

 

1.世の中を合理的に分類した理詰めでシビアな釈迦と、そんなものは空(ない)という般若心経の観音

釈迦「人間のありかたを分類すると五蘊となる。色、受、想、行、識、その5つが実在する」
観音「そんなものは気のせいだ。五蘊皆空である。色もなければ(色即是空)、受想行識も同じようにない(受想行識 亦復如是)」

釈迦「世界は認識する側(六根=眼、耳、鼻、舌、身、意)と、認識される側(六境=色、声、香、味、触、法)、そして認識そのもの(六識=眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)の十八界からなる」
観音「それも気のせいである。六根も六境も六識もない(無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界)」

観音は、釈迦の弟子である舎利子に向かって延々と釈迦の否定を説く。それが般若波羅蜜多(知恵の完成)である、と。
しかしそもそも観音様自体、釈迦の時代にはいなかった、大乗仏教のつくった新キャラクターなのである。ずいぶん好き勝手にやるものだ。

 

2.神秘的で漠然とした観音は、呪文を唱えよと言う

釈迦の分類を否定した観音は、それを元にした釈迦の教え(人間の苦しみの連鎖「十二支縁起」、仏教の基本方針「四諦」)も全否定する。

p55 釈迦はこの世の事物は基本要素によって構成され、その要素間の因果測によって動いていくと言ったが、それは低いレベルの理解である。(中略)この世はそのような理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている。これが「空」である。

では、そこまで徹底的に釈迦をやっつけておいて、観音はいったい何を主張しているのか。

p83 『般若心経』の働き、それは一言でいえば「呪文」です。そしてその奥にあるのは「神秘」です。

是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
(最高の「咒(呪文)」であるこの言葉を唱えよ)

羯諦羯諦 <ぎゃていぎゃてい>
波羅羯諦波羅僧羯諦 <はらぎゃてい はらそうぎゃてい>
菩提薩婆訶 般若心経 <ぼじそわか はんにゃしんぎょう>

この呪文を唱えさえすれば、すべて解決。意味を知る必要もない。とにかく唱えよ。

うーん。すごいオチだ。推理小説だったら袋叩きだろう。

p90 誤解のないように言いますが、意味を考える必要がないというのは、無意味で中味がないということではありません。表面に現れている言葉が極端に少ないということは、「言葉にされていない部分」が背後にたくさん隠れているということの裏返しでもあります。じっさい神秘とはそういうもので、言葉で言いつくされないところに、はかりしれない〝何ものか〟が隠されているのです。そしてそれは、「とにかく信じることで苦しみを取り除いてもらいたい」という思いの上に成り立つ、大乗仏教らしいあり方ともいえます。

佐々木閑は、どうやら釈迦が好きで般若心経については、フラットな記述を心がけながらも、ともすれば否定的な表現にもなっているようだ。釈迦の教えについて佐々木さんが書いた本を読んでみようか。同じ100分 de 名著シリーズの「『ブッダ 真理のことば』 2012年3月 (NHK100分de名著)」。ここで扱う「ダンマパダ」は、世界の仏教国でもっともよく読まれているお経なのだそうだ。

そして、大乗仏教と「空」について、もう少しちゃんと知る必要がありそうだ。般若経の「空」を論理的に体系化し、哲学的概念に昇華させたといわれる「龍樹(ナーガールジュナ)」。難しそうだが手を出してみよう。